歩み寄るといふこと

人間同士で行われる争いというのは、しばしば自己正当化の応酬である。

例えば問題を抱えた夫婦やカップルの間で口論がされた場合、その問題の解決や本質は脇に置かれ、

「私の考えは異常ではない」という論点で主張しあっていることがほとんどではないだろうか。

戦争だって結局は自分達の正当性を信じ込んでいる者同士が行う争いである。

ここでは、男女間でことさら頻繁に行われている(ように思える)「話し合い」と呼ばれる議論に的を絞る。

解決にあたって、こう考えれば楽なのになぁと感じることをメモ。



例えば、夫が妻の態度や応答に対し煮え切らない感情を持っているとしよう。夫はそれに抗議をする。

そこで妻は「こんなことをするようになったのは、全部あなたのせいよ!」と謂う。

ここで妻の思考では、自分の取る行動は全て夫の異常な行動に起因するものだ、と主張している。

しかしそう考えている内は「夫が異常な行動をするのは私のせいかもしれない」という思考が完全に脳外定位している。

妻に対し煮え切らない感情を持つ夫の場合も然りである。

煮え切らない感情の源泉を妻に見い出し、傍目から観た彼女の異常さは自分にも原因があるのではないか、と省みない。

そしていつのまにか、ただお互いに「あなたは異常なのだ」と諭しあい、

必然的に、いかに自分が正常な人間かを証明しあう討論となっている。(その際周囲にいる人間の評価を参照する傾向にあり)

そういう二人に問題解決への糸口は見えていない。ただ相手の反省を促し、譲歩さえ得られれば良いと考えるようになる。


しかし、総じて相手の間違いを諭すという作業は困難を極める。極めて面倒くさい。

特に家族間の話し合いの場合は、家族自体が主観であることが多く、家族の意見を客観的に捉えることは難しい。

対して自分の中に間違いを見つけようとする行為はどうだろうか?

例え結果として対象が見つからないとしても、その行為自体は一人称だけに、前者より格段と容易に思える。

何よりまず相手を挑発したり叱咤を誘発することには繋がらないだろう。少なからず平和的だ。

それには「自分には非が無い」という前提を根こそぎしなければならない。一見して無いように自分で思えてもこれは絶対条件だ。

いっそのこと「相手がここまで自分に危害を加えるのは、全て自分のせいだ」と思いこんでしまってもいいかもしれない。

具体的に述べてしまおう。

Bullet pointは、相手の訴えていることをとりあえずは素直に受け止め、弁明するのではなく相手の辿った思考を予測することにある。

すると相手が今まさに狙い撃とうとしている「己の非」の正体が見え、何かしらの対応を取ることができよう。

自分が行き着いた答えならば、他者にいきなり突かれるよりも納得がいき易い。

こうして「思考の再帰ループ」が出来上がり、上手くいけば「反省(自己修復)のアルゴリズム」が実行される運びとなる。

相手が何故自分にあのようなことを言い、そのようなことを考えるのかを、自己への方向性をもって深く考えることがとりわけ重要なのである。

口論が終わった頃には互いが各々の問題を的確に認識し、解決への道筋が見えてくるだろう。これが俗に謂う「歩み寄り」なのかもしれない。


無論、互いの問題を指摘しあうことによる触媒効果も忘れてはならない。(言い合いがなければ口論はない)

異常点を指摘されることによる「気付き」は「己の非」を探索する際のヒントとなり、問題の早期反省を促す効果がある。
アルゴリズムに投げる引数といったところ)

説明するまでもないが、ここで「指摘」は触媒であり、「気付き」と「己の非」はやがて反省へと化合されていく。

間違いをわからせる・論破するというより、思考の異常箇所を人差し指でそっと指し示してあげるくらいの按配がちょうど良いと思われる。


ここで挙げた考えは、一般には机上の空論であり、キレイゴトの詰められた理想論と捉えられるかもしれない。

私も「一般論」の括りで語れる内容ではないことを承知している。これは私の思考の殴り書きにしか過ぎない。

しかし私の経験論からいうと、この思考法は少なからず私生活で効果をあげているし、

実際に諍いの絶えない男女を見た時、彼らにそのideaが不足していると感じることもしばしばである。


恐らくこの思考が効果を生むのは、二者間で比較的似た常識を共有している場合に限る。

大きく異なる社会常識同士が鎬を削りあう争いの場合は、「反省」の導き出す答えが両者を納得させる確率が低いかもしれない。

その時はすぐにでも離婚するなり別れるなどするといい。(未婚者の自分がいうのは大いに問題有か)

そもそも異なった常識が一緒になるとろくなことがない。ただの精神の削りあいに過ぎないではないか。

そのような時も是非「こんな相手を選んでしまった自分が悪い」とお互いに非を認めあって、潔い決断を行って欲しいものだ。